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岩崎学の中国物語

いざ北京へ

97年北京へ

 帰国後「本当の天職は漢方医学だったんだ」の思い込みは一層強くなり!!半年くらいはもやもやしてましたが、父親に相談を持ちかけたところ、一喝されると思っていたのが快諾され、しかも父親にコネクションが。「やっぱり運命なんだ」と改めて実感!

そこからは早かったですね。会社に辞表を出し、中国の医学部を紹介してくれる学術団体に挨拶をして、気付いたらその団体にくっついて中国語の「予科」クラスに入学していたんです。これが97年の9月、「にぃはお」も知らない田舎者が、漢方医学を目指して中国語を学ぶことになったのです。

不安を感じる暇もなく

 今でこそ中国語に不安がなく、中国人に「お前は日本語もできるのか!?(おいおい!一体何人だと思っているの!?)」とまで言われるようになりましたが、当時は全くできないわけで...でも、中国語が話せないと、大学に入学はできないし、入学してもついていけるはずがありません。

 北京に来る時期が遅れたので、授業も10日間遅れで参加。教師は当然中国語だけを話し、なぁ~んと、周りの同級生も皆片言の中国語で授業に参加しているではないですか。後々知ったのですが、生徒によっては2ヶ月も前に北京に来ていたんです。

不安を感じてる暇なんかありませんでした。最初の1ヶ月は授業についていくのが精一杯、教科書の予習復習だけです。しかもヒアリングは直ぐに上達するわけではないので、焦りばかりが先行です。

今では大感謝していますが、とにかく発音に厳しいおじいちゃん先生で、毎日何十回と基礎の音を注意されました。当時は同級生の前で「さらされている」ようで恥ずかしさと悔しさが一杯でしたね。

スイカ売りました

 予習の貯金ができた頃、自転車で買い物にもいけるようになりました。でも、周りの話していることは一言も分かりません。教鞭を振るう先生の言葉が何となく分かる程度です。確かバスに乗るようになったのもこの頃です。でも、怖かった...何を言われても分からないんですから。紙とペン、それから辞書を常に携帯していました。そう、筆談です。

医学部に入学した後は、色気の全くない電話帳のような教科書、授業は全て中国語、先生や同級生とのコミュニケーションも中国語。ヒアリングも読解も、話すことも必要です。で、授業の予習復習以外に、家庭教師をつけ、更に毎日2時間は必ず外に行って中国人に接しました。当時は道端で商売をしている人が多かったので、時には一緒になって「すいか、安いよ~」なんて果物を売ったりしました。

医学部入学の条件

ほぼ10ヶ月間中国語漬けでなんとか中国語も形になってきました。

プレッシャーになったのが、医学部の入学条件、HSK(漢語水平考試)7級です。どこをどう勘違いしたのか、6級で良いものを7級と思い込んでいたんです。センター試験対策のような勉強です。

 7月、最後のチャンス。努力のかいあり7級獲得。9月から本科に入学、いよいよ医学の勉強です。

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